第一章ダイジェスト後半
私はリールとジュナと共に迷宮を抜け出した。
早くリールを街から逃がさなくてはならないのだ――しかし、リールを街から出そうとした途端、【胃弱】の恩恵ギフトが邪魔をした。
「――姉さん!?」
門の敷居の向こうへ一歩足を踏み出したリールが悲鳴じみた声をあげている。
私は血反吐を吐き散らしながらその場に膝をついていた。
「――ボクが出て行けば姉さんが血を吐く。悪ければ死ぬ。母上の精霊の仕業ではありませんね」
リールは逃げなかった。――私のためだ。
私の持っている恩恵を通じて、精霊がリールを逃がすまいとした。人の足を引っ張る精霊の呪いバッドステータス。
私達の邪魔をしているのは――もしもリールが魔族だとして――魔族を真敵と定めている、精霊神教会が奉じている精霊、アスピルなのだろうか?
私に血反吐を吐かせる【胃弱】の恩恵からくる胃の損傷を癒すために、侍医の待機している後宮へと戻ることになった。
――私は人間だけれど、リールが魔族なら、他の家族はなんだというんだろう?
リールの正体がタイターリスに知られていて、タイターリスがいつ精霊神教会の人間にその秘密をバラしてしまうかわからない以上、ハイワーズ家のみんなと相談しなくちゃならない。
かくして集められたエイブリー、カロリーナは――人間ではなかった。
その種族の性質の違いは、精神性にも現れているように見えた。
これまで理解しようとしなかったせいで、根本的な違いに十五年も共に暮らしてきていたのに気づかなかった。
「殺せばよかったのよ」
カロリーナは他愛もなくそう言った。
「リール、あなたが異種族かもしれないということを、知った人間を殺せばよかったのよ。どうしてそうしなかったの?」
「第一王子に知られました」
ハーカラント殿下――タイターリスがその人だと、リールとエイブリーは知っていた。王子だと、わかってもなおカロリーナは王族殺しの可能性を模索する。その無邪気な表情から彼女の種族が尋常なものではないと理解できる。
エイブリーは反対したけれど、それはただ単に父の準男爵という地位を守りたいからだった。
人殺しは悪いことだとか、犯罪だとか、そんな当たり前の考えや躊躇いはまったくない。
「敵は精霊神教会と、第一王子殿下、たぶんエリーゼの行動を制限しているのでしょう精霊神アスピルと、他にあるかしら?」
「悪くすれば国、そしてステファンだな。あいつは教会に入り浸りだ。ハイワーズ家に不利になるように動くのならば、始末するべきだろう」
「わかりました。ボクはもう行きますね」
「気をつけるのよ。教会に捕まる前に自害してね」
死ぬのは嫌だとか、怖いとか――そういう“人間らしい”感情がまったく感じられず、淡々と進んでいった会話に、私は呆然とした。
これほどまでに、彼らは私と違う生き物だった。
――そして、呼んでも来てくれなかったステファンは、恐らく人間らしかった。
人間だから、私のことが嫌いだという感情に抗えなかった。
人間だから、精霊神教会の救いに縋ってる。
人間だから――自分より年下の私が、自分にはできないことを簡単にやってのけるという矛盾を憎んでいる。
このハイワーズ家における魔族たちは、人間の育て方なんて知らなかった。
私みたいに始めから自我を備えて言葉や文字を操れなかったステファンは、打ち捨てられた子供だった。
ステファンは私が自分より愛されたから私がすべてができるようになったと思いこんでる。ばかみたいな勘違いが、可哀想だった。
私が説得するから、だからステファンを敵だというのはよして欲しい。ステファンに私は殺されかけたことがあるらしいけれど、そんなの別に覚えていない。
兄姉の誰よりステファンの気持ちが理解できるから。
そう兄達に懇願して、私は精霊神教会に入り浸っているステファンを説得に向かった。
教会にいた聖女は、ステファンと私を会わせてはくれなかった。
聖女が言うにはステファン自ら拒んでいるらしい。ありえる話で、だから憂鬱だし、面倒だったけれど、投げ出そうとは思えない。
まだタイターリスと接触もしていないのに、元からハイワーズ家の何かを怪しんでいたらしい聖女は、私に探りを入れるためにかお茶に誘ってくる。ステファンのことを解決するためにも、ケーキを食べるためにも私はその誘いにのった。
精霊神教会に侵されたシーザリア王国の王女にして、精霊神教会の象徴である聖女シルフローネ。
彼女は初めから私をよく思っていなかった。――タイターリスが好きみたいだった。
タイターリスなんてどうでもいい私を眼の仇にするのはやめてほしい。
第一王子の後宮に入ってるのだって不可抗力だ。
けれど、リールのことがあるから、私も友好的であろうとは最初から思ってない。
全部が悪いように作用して、聖女シルフローネは私を殺したいみたいだったし、私も――私を殺そうとするシルフローネなんか、大嫌いだ。
殺される前に殺したいくらい。
ステファンを今すぐどうにかすることはできなさそうだったから、その前にリールをどうにかすることにした。
リールは、私のためにこの街から出ずに、とりあえず隠れることにしたらしい。
きっとリールのことだから上手く隠れているだろうと思った――だけど一応、探してみようと思ったら、ものの三十分も経たないうちに、リールを発見してしまった。
旧市街地、貧民街のバターレイを根城にしている、フィンという少年団を束ねる男の子に、私はリールをもっと上手く隠すようにお願いした。
この街、アーハザンタスの裏を知り尽くしているフィンにリールを預けて、少しだけほっとした。
フィンの力はよく知っている。
五歳くらいの時に知り合ってから、何かと力を借りてきた。だから、彼がどれだけ上手くやれるのかもわかってる。
リールのことは大丈夫だから、次はステファンだ。
教会にはいないらしい。家に帰っているのかと思って屋敷に戻ったけれど、そこにもいなかった。
美しい兄達の影響を受けて私に優しくないメイドたちに確かめてみたけれど、立ちよってすらいないらしい。
ついでにお母さまの顔を見にいった。
いつもよりずっと体調がよさそうで、ぼうっとしているけれど、少しだけ話ができた。――すぐにお母さまは眠ってしまったけれど。
お母さまの侍女、リーラに、試しに聞いてみた。
「――お母さまは人間なの?」
「ええ」
リーラは強く頷いた。
「アイリス様は、誰もが待ち望んだ結果生まれてきた人間です」
「……それは特に求められもしないのに生まれてきて、構われることもなく育ってきた私たちと対比して言ってるの?」
意味のわからない答えに思わず言い返したけれど、リーラとエレナはそれ以上何も言わなかった。
お母さまのお世話をしはじめた彼女たちに背を向けて、今度こそステファンを見つけようと再び動き出した。
それで、改めて後宮に集合してみたら、エイブリーお兄様がステファンに会っていたことがわかった。
しかも、神経質なステファンに、とどめを刺すようなことを言ったみたいだった。
これまで大事にしてきた精霊神教会を敵に回すことができないなら、おまえなんか仲間に入れてやらない、みたいなこと。
言われたステファンは平気な顔はしてなかったらしい。ステファンの行方がまたわからなくなった。
「ステファンのことは俺に任せておけ」
最終的に、 お父様の「現状を維持せよ」という命令を遵守するために、エイブリーがステファンをどうにかしてくれることになった。
私は代わりに、迷宮に釘付けにしてきたタイターリスの足止めを命じられた。
これは確かに、ハイワーズ家の中では誰より私が適任だろう。
タイターリスは王子だから殺すわけにはいかないし、私は元から顔見知りだ。
できるだけ長いこと迷宮にいてもらって、聖女にリールの種族が告げ口されないようにしなくちゃならない。
迷宮に戻って、何日か上手くいった。
タイターリスも私も外の様子がわからなくて苛立ってはいたけれど、ジュナの仲間の人達が、やんわりととりなしてくれた。
けれど平和な時も長くは続かなかった。
――聖女が迷宮に足を踏み入れた。
こんなことなら、迷宮の奥の奥の方に野営していればよかったと思う。けれど、迷宮の入り口付近にある広間でキャンプをしていた私達のところへ、聖女はあっと言う間に辿りつき、外の不吉な状況を伝えた。
「可哀想に、ステファンは随分思いつめていたようですわ」
だから、と聖女の声が遠くに聞こえた。
「悪霊に魅入られたのですわ。汚らわしいこと。憐れですが、同情はできませんわね」
「そん、な。ステファンはどうなったの?」
「今は逃亡中です」
ステファンは悪霊にとり憑かれた。
悪霊にとり憑かれたステファンに不意を打たれて、エイブリーお兄様が刺されたらしい。エイブリーお兄様のことはあまり気にならなかった。
悪霊に憑かれる。エリーゼも体験したことがある。
あの時、エリーゼは殺されかけた。
「当然、殺されますわ」
にっこりと笑って聖女はステファンの末路を語った。
「悪霊を駆除することのできる機会は何にも替えがたい、無上の喜びですわよ。ステファンは尊い犠牲となるのですわ。この世から醜い穢れがひとつ消え、精霊神アスピルの望む世界に一歩近づく……わたくしの前で、悪霊をできるだけ苦しめて殺していただけるよう、ステファンは生きて捕らえるように言っておりますの。あなたも一緒にご覧になるでしょう、タイターリス?」
「――オリヴィエが、そう望むなら」
タイターリスが険しい顔をしてそう答えた。
精霊神アスピルの申し子である聖女から、何らかの制限を得ているタイターリスが、聖女に倣い、そしてリールの種族まで暴露した。
リールの種族について、憶測に過ぎないのに、聖女は既にリールを悪魔と決めつけて、退治するつもりでいる。
私は迷宮から抜け出して、刺されたというエイブリーお兄様の元へ行くことにした。
ステファンを探してあげく刺されたエイブリーお兄様なら、事情をよく知っているだろうから。
エイブリーお兄様の仕事場である王宮に向かったら、右腕を怪我したお兄様とはちあった。そして、お兄様が決めた残酷な決定について知った。
――エイブリーお兄様もカロリーナお姉さまも、ステファンをとっくに殺すつもりだった。
ハイワーズ家に不利益だから。理解し難かった。
私は私でステファンを助けようと思った。私にも、悪霊に憑かれても助けたいと思ってくれた人がいたように、ステファンにそういう人間がいたっていい。
けれど、次にお姉さまがステファンに襲われた。
幸い怪我ひとつなかったけれど――私達、リールと、お兄様と、お姉さまの四人は、王に呼び出されてしまった。
一網打尽。殺されるのかもしれない。国にとって不利益だから?
よくわからない。王は、リールと、お兄様とお姉さまを王宮に匿うと言った。
そして私を王宮立ち入り禁止とした。
それらはすべてお父様――アラルド・アラルド・ハイワーズの意向だという。
「どうして! 姉さんには身を守る手段なんてないのに!」
「外で護衛を雇おうと、屋敷に籠ろうと構わんよ」
ただ、と国王陛下は無感情に言う。
「邪魔をされては困るのだ」
何の邪魔?
――リールを殺す、邪魔だろうか。
そう思いこんで叫んだけれど、近衛兵の手によって私はいとも簡単に王の前から引きずり出された。
私の混乱ぶりを見て、近衛兵は呑気だった。エイブリーお兄様達の種族なんか知らないから、何かわけはあるのだろうけど、大したことじゃないだろうと思っているらしい。
彼曰く、タイターリスと聖女の結婚の話が秘密裏に進められていて、王はその邪魔を私にして欲しくないのではないか? という。
「……殿下が聖女と結婚か」
あの聖女なら、エリーゼを邪魔だと考えるだろう。今回の一連の出来事について、聖女が裏で糸を引いているとしたら、リールたちの身が危ない。だが、国王は父の差し金だと言った。嘘の可能性もあるが、嘘を言う意味がない。
(お姉さまやお兄様を大人しくさせるために、ってこと? それなら効果はあるかもしれない)
もしそうなら、聖女が悪魔と考えている兄弟達の身は既に聖女の掌にあるということで――既に事態は最悪だった。
喚く私を憐れんで、騎士としてのエイブリーお兄様を慕う騎士団の人達が私をアーハザンタス駐留騎士団の兵舎に招いてくれた。
そこでよくしてもらって、ありがたかったけれど、じっとしてはいられない。
私はすぐに動き出した。
裏の世界にどっぷり嵌り込んだ、私より少し年上の男の子、フィンに依頼した。
毒薬を用意して欲しい、と。
リールを助けるにはこの国から逃がすしかない。
けれど、リールがこの国から逃げるには、私が邪魔だった。
私が死ねばリールの行動を縛る枷はない。――少なくとも、街を出ることはできるだろう。
「殺されるくらいなら、その前に死ぬ」
リールが無理やり街を出ようとして私が死ぬとしたら、私はリールに殺されたと思うだろう。殺されたらリールを恨んでしまう。その前に死ねば、私はリールを恨むこともないし、リールは助かる。
「もしも私の家族が誰ひとり欠けることなく、この状況を乗り越えることができるのなら、たとえ血反吐を吐いて胃が消えてなくなっても、フィンが望むだけの報酬を払うって約束する」
対価は後払いでいいと言ってくれるのは旧知の仲だからだろう。
とはいえ、犯罪者へと既に身を落としているフィンという少年に、私は途方もない約束をして、私は覚悟を試されていた。
毒を用意してもらったけれど、それを飲めるかどうかはわからない。
覚悟を決めきることができなかった。そんな私をフィンは笑った。
私を凶行に走るステファンから守るためとはいえ、軟禁まがいの仕打ちをしてくる騎士団からフィンの助けを得て逃げると、私達はまずステファン捕獲の作戦に乗り出した。
ステファンはフィンのホームグラウンドであるバターレイに迷い込んでいるらしい。人が身を隠すのには打ってつけの場所だから、私と違って悪霊に憑かれていてもある程度理性を保っているらしいステファンの場合、自然と足が向いたのだろう。
私が囮となってステファンをおびき出す作戦はうまくいった。
どういうわけか、悪霊に憑かれたステファンは――目の前にいるエリーゼより、父の交渉により王宮に隠されているらしい母を殺したがって、戒めの縄の中で身を捩っていた。
リールは自力で王宮の包囲網から脱出したらしかった。
いくら父の意向だと王は言っているとはいえ、その目的は判然としない。
なら、近くにいてくれた方が絶対にいいに決まってる。いつでもリールを逃がせるように――そのリールもフィンによって見つけられて、旧市街地のバターレイで合流した。
捕まえたステファンと合流したリールと私で、これでバターレイにハイワーズ家の兄弟が三人揃った。
後はステファンから悪霊が払えればいいだけだけれど、ステファンが自力でそれを払うのは困難なように見えた。
だからといって、人力で払ってもらうのにはお金がかかる。
古代星ルーン語と言われるものを使いこなせる賢者と呼ばれる魔法使いの力が必要だった。そして、彼らの力を借りるには、正貨という特別なお金で白銀貨二枚と銀貨十枚という大金が必要だった。
云百万円のお金を全部ギザ十で支払え(ちょっと違うかもしれない)というような途方もない要求だった。
お手上げだとフィンは言う。リールもそう思っている。
けれど、私にはトランプで得たお金がある。
大聖堂に入り引き出すことさえできれば――ステファンを助けられるだろう。
できれば、の話だけれど。
そして、できなかった。
大聖堂に入ろうとしたら血反吐を吐いた。
それでも押し入ろうとすれば胃がしくしくと痛んで泣きたくなった。むしろ泣いた。
それ以上身動きしたら死んじゃうと思った。
これじゃ精霊に殺されるのとおんなじだ。だから――と考えるより前か後にか、私は目を回してその場に倒れた。
目が覚めたとき、何故かそこにはお母さまがいた。
よくわからないけれど、お母さまが大聖堂の中から私を引きずり出して、広場のベンチまで運んでくれたらしかった。お母さまの後ろにはリーラとエレナ、二人の侍女が控えている。お母さまが外を出歩くのが初めてなら、この日ほど元気なのを見るのも初めてだった。
何か元気に喋って動いていたけれど、よくわからない。
お母さまがこれまでふわふわしていたのは、精霊の封印――つまり、精霊の呪いバッドステータスによるものらしい。
それが何なのか、訊ねようとしたら、何か、異変が起きた。
奇妙なことが起きたのは間違いない。私の身体を虫唾が走るような感覚が貫いた。お母さまはそれとほぼ同時にふらりと倒れて気絶した。
西から暗雲が立ち込めて、またたくまに空を覆うと、今にも雨が降り出しそうな空模様になる。
お母さまを雨に打たせまいと、侍女たちが慌てて大聖堂へとお母さまを運んでいく。
それを手伝って、けれど雨宿りのために大聖堂に入ることもできなくて、私は外側の庇にもぐって空や家並みを眺めていた。
――その時、家々の屋根の合間から、青白い炎の柱が立ちのぼるのを見た。
それはこれまでに何度も見たことのある、リールの魔法と酷似していた。
街中で使うような魔法ではない。それでも使っているということは――何かしらの緊急事態だ。
私はすぐさま走り出し、その火柱の元へと向かった。すぐにリールと行きあうことができた。リールに近づこうとしたけれど、何故かリールが私を殺そうとする――そこへタイターリスがやってきて、言う。
「魔法使いは、悪霊にとり憑かれた」
ステファンにとり憑いている悪霊の影響を受けているのだという。
そして、リールは私を殺しに来たと。
――信じられないし、信じたくないし、悪霊に憑かれているだけだ。
「悪魔を庇うな、エリーゼちゃん!」
タイターリスは叫ぶように言う。
やめてと言ってもやめてくれない。タイターリスの恩恵である【人助け】が人を助けるために、人以外の異種族を殺せとタイターリスに命じるのだろう。抗えない――精霊の呪いバッドステータス
「エリーゼちゃんは引っ込んでてくれッ」
「普通の剣じゃ殺せないはず。悪魔ってそういうものでしょ!?」
「それなら心配はない……俺の剣はちゃんと聖別された、特別製だよ!」
「でも、じゃあ、――リールが悪魔だっていう証拠なんてないじゃない!」
タイターリスの心を抉る言いわけを思いついて、考えもせずにそれを放つ。
彼は明らかに怯んで顔を歪ませた。私は言いつのった。
「やめてよ、リールは悪魔じゃない。そんな証拠なんてない。タイターリスが勝手に言ってるだけ! 根拠なんてないも同じだよ。タイターリスは自分が嫌いだからリールを殺そうとしてるんじゃないの!?」
「そんなわけないだろう!」
おまえはただの思い込みで人殺しをしようとしている犯罪者なんじゃないかと、突きつける。
「俺がどれだけ……どれだけ! どれだけこの精霊の呪いバッドステータスに、苦しんできたか……!」
そんなことわかってる。同じ苦しみを今私だって味わっている。
けれど追及をやめるつもりはなかった。タイターリスより、弟のリールを選んでいるから。
タイターリスが怯んだ隙をついてリールをなんとか逃がせた――その瞬間は、そう思った。けれど私達の敵はタイターリスだけじゃなかった。
路地から現れた聖女によって、魔力のこめられた聖水がリールの身体にふりかかる。そして魔法陣が展開し、リールの頭上に光の字を描いていく。
聖女が言うには、この魔法が完成するときには、リールの種族が古代語で書きこまれることになるという。
今はまだ、聖女には読めない。
「あなたがタイターリス様に抱いた不敵な疑惑が、明らかにされますわよ。安心ね」
「……あれは、どうやったら止められるの」
「終わり、と言えばいいんですわ」
「終わり?」
聖女の言葉を飲みこんで終わりと口にする。私の滑稽な姿を聖女は笑った。
「普通語ではだめですわ。言っておきますけど、古代語でも無理ですわよ。これは古代星ルーン語の魔法陣なんですの。精霊神アスピルの信徒たる賢者たちが協力して復活させた、古の魔法なのですわ。美しいでしょう?」
「……古代星ルーン語?」
「一言覚えるのに大変な苦労をしましたわ。発音がとても難しくて――しかも、発音が難しいというだけの困難さではありませんの。とにかく、魔法的な壁に阻まれて、覚えるのに随分時間を食いましたわ。けれど、これが言えないと聖女になることができないのですわ」
この聖女は、私が古代語より難しい言葉を何一つ知らないと思っている。
それが聖女にとっての仇となり、私にとって救いの糸口になった。
「……|魂はあるべき象に戻るべし《終焉》(光の精霊に申し上げる)」
古代星語で口にした途端、書きこまれていった光の文字はぴたりと止まり、やがて粉々になって消えた。
リールは魂を暴かれる苦しみから解放され、その場にくずおれた。
私は安堵のため息をついたけれど、聖女は私達の安堵を許さなかった。
聖女はタイターリスよりずっと潔かった。例えリールが本当に悪魔でなくて、これが冤罪であろうと構わないとまで言い切った。もしかしたら悪魔かもしれないのだから、と。――当然、好きになんてなれないけれど。
聖女はタイターリスにリールを殺させようとした。
リールはいつの間にか悪霊の楔から解き放たれていて、いつも通りの顔色でタイターリスを見上げた。
「ボクを殺そうとしている、あなたの名前は?」
最期の最期なのだから、別にいいと思ったのかもしれない。願いをひとつ聞いてやるくらい――タイターリス・ヘデンは自身の名前を朗々と答えた。
リールは次に私に最期の言葉を投げかけようとした。
それはあまりにこの場にそぐわない、他愛ない質問のように思えた。けれど、リールが知りたいというのなら答えようとも思った。
即座に答えた私の言葉に、タイターリスは目を見開いた。
タイターリスは、よくわからないけれど、精霊の呪いバッドステータスから解き放たれたみたいだった。
タイターリスに聖女を任せて、私達は大聖堂へと向かった。大聖堂の方から悲鳴が聞こえた――恐らく、あそこで何かが起きている。恐らくは、あそこにいるお母さまを狙ってステファンが乗り込んでいるのだろう。
中へ入ると、未だ気絶したままのお母さまを侍女のリーラとエレナが二人で守っていた。ステファンが不利だ。けれど、侍女達の細腕でステファンを取り抑えられるわけじゃない。
膠着した事態を打破したのは、背後からの聖女による急襲だった。
リールが聖水に穢されて倒れる。タイターリスの姿は見えない。
外は雨が降っていた。侍女達は私は生まれてくるはずのなかった存在だと言う。お母さまは気絶していて、前には目を赤く血走らせたステファンが短剣を手に立っている。後ろには聖女が暗い微笑みを浮かべて佇んでいる。死にたくなるほど孤独だった。
絶対絶命で、選ばなくてはならなかった。
私の選択を待って、大聖堂のすぐ入り口にフィンの手の者が待機しているのがわかる。
魔法の矢で倒れたリールを射ようとする聖女からリールを守るように、私はリールに覆いかぶさる。
聖女に殺されるわけでも、リールのせいで死ぬわけでもない。
そして私は毒を呷った。
予想していた衝撃を、何故かステファンが受けとめていた。私を庇うように覆いかぶさり、聖女の一撃を受けて腹に穴をあけていた。
どうしてこの状況でステファンが私を庇ったのか――ステファンの話を聞いても、私にはよくわからなかった。
けれどステファンの中に葛藤があり、それが解決したのはわかった。
「嫌いなやつに、助けられるなんて、最悪な、気分、だろう?」
だからステファンは嫌いだったはずの私を助けたのだろう。
「なんてまぬけな顔をしてるんだ。僕が死んでも、絶対に泣くなよ。おまえなんかに泣かれても、ありがたくもなんともない」
「ステ――」
「おまえが四歳のとき、井戸に落としたことだけは、ごめん。あのことだけは、本当に、悪いと思って――」
ステファンが言いさしたところで、私はたくさんの血を吐いて倒れこむ。せっかく助けてくれたのに、私はもう毒を飲んだ。私は死ぬ。ステファンも死ぬ――悪夢だと思った。
侍女たちは、腹を穿たれて、痛みに涙しながらも、囮として聖女を最期の瞬間まで引き付けると申し出たステファンに抗議した。
「あなた様は生き残らなくてはなりません! 運命が――」
「運命なんて知ったことか! 僕は二人の兄なんだ!」
叫ぶステファンの声が近くて遠い。
次第に視界も感覚もぼんやりとしていき、気がついたとき、私は大聖堂ではない――奇妙な白い空間に横たわっていた。
そこには私にそっくりの幼女が二人いて、何故か私は二人に物凄く嫌われていた。それも、ひどく理不尽な嫌い方だ。
さんざんに罵倒されて、うんざりしていたら、そこに迷宮で私の記憶を食らった悪霊そのものの姿が現れた。
けれど、それはどういうわけかお父様だった。
お父様は幼女達――どうも、お父様の言葉によると、彼女たちは精霊らしい――を脅し、怯えさせ、私から遠ざけてくれた。
それを見かねたように、白い空間にまた別の存在が現れた。
「うちの期待の新人なんだ。脅かすのはそれぐらいで許してあげてよ」
それは金髪の少年だった。彼もまた精霊らしかった。
少年はふざけた口調で「トランプまだー?」なんて催促をする。――恐らく、私に精霊クエストを出した精霊だった。
彼は私と同じ姿をした幼女達の味方で、お父様をやんわりと牽制して、幼い彼女たちに状況を思い出させた。
「ところで、本気できみたちの主が死にかけてるんだけど」
いいの? と首を傾げるエシュテスリーカという少年の言葉に、幼女たちは決心したように私のところへやってきた。
私にステファンを助けてほしいという。助けられるものなら助けてやりたかった。始めからそのつもりだったのだ。
私に使えれば賢者と呼ばれるようになる古代星ルーン語による精霊魔法を使わせて、ステファンの身体から悪霊を取り払わせようとした。
けれど、私が魔法を使えるようにすると、私は彼女たちが封じていた記憶を取り戻すことになるといって、彼女たちは警戒していた。
それはすなわち、私が四歳の時、ステファンが私を井戸に落とした時の記憶だという――ステファンが瀕死の重傷を負いながらも、謝ってくれた出来事だ。
思い出してもステファンを殺さないと約束し、そして私は解き放たれた。
私は彼女たちの約束どおり、私の身体には強すぎる力を使ってステファンを助けたのに、彼女たちは約束をやぶり、この恐ろしい力の奔流を止めてくれなかった。
いつか、私がもしかすると殺されかけたことでステファンを恨むかもしれないと――そんなばかげた理由だった。
そんな理由で殺されなくちゃならないのなら、いっそのこと、本気でやってやろうかとすら思った時、お母さまが起き出して、ハイテンションにこう言いだした。
「勇者アイリス、ただいま見参! ……なんてね」
その瞬間、私の身体から溢れ出ていた魔力は止まった。
私の力で傷口が塞がっているとはいえ、疲労困憊しているはずのステファンを叩き起こして、お母さまは、意地の悪い赤髪と黒髪の私にそっくりの幼女達を、ステファンの精霊だと言った。
「でも、どうしてこの子たちが……僕の精霊なんですか?」
「あなたが次代の勇者だからよ、ステファン」
ステファンも私も目を丸くした。お母さまが言うには、お母さまが勇者を産むことは千年も前から預言されていたという。
そうして、お母さまは今運命を突きつけられたばかりのステファンに対して、元勇者として非情を命じた。
嫌がるステファンに、ステファンの身体から離れた悪霊の残滓を殺させた。
泣きながら苦しみながら、勇者に選ばれた証である黄金色の弓を引き、悪霊を殺したステファンを見届けて、私の意識が朦朧としている内に飲まされたらしい解毒薬の残滓や、口の中にたまった血や、未だに大聖堂に対して持っている忌避感に襲われるまま、ふらりとその場に倒れ込んだ。
私が目を覚ましたのはあれから一月後で、色んなことが起きていたらしい。
起きてからは、ステファンを小突いたり小突かれたり、フィンにお金を返したり、最後には精霊クエストも達成して、私の身に降りかかっていた様々な精霊の呪いバッドステータスを解いてもらった。
完全解除とはいかないけれど、今や大聖堂には入れるし、街の外に出ることもできる。
きっといつか、夢みたいな冒険だってできるだろう。
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