妹思い
身体の弱い、おれの妹。
今日もぐったりと床に倒れたまま動かない。はあはあと荒い呼吸をしていて、自分で水も飲むことができない。たまに孤児院の大人がおれたちの様子を見にくるけれど、たぶん、放っておけばその前に死ぬだろう。
ハルアはおれを色のない目で見上げてくる。
おれはそれに背を向けようとして――目の前に、ハルアとよく似た栗色の前髪を見つけてしまって、唇を噛んだ。
母さんが死んでからおれたちは孤児院に入れられた。
前からハルアは身体が弱かった。だけど前は母さんがハルアの面倒を見てくれた。
だけど、もう母さんはいない。
ハルアの面倒は、おれがみなくちゃいけない。
「――くそっ!」
おれは悪い言葉を吐いて、水差しを持って井戸に向かった。
他のやつらは、とっくにお恵みを貰いに精霊神教会に行ってるだろう。
おれが取りに行く頃には、なくなっているかもしれない。
空腹のあまり眩暈がして、自分で水も汲みにいけない足手まといの妹が憎たらしくてたまらなくなる。
……そういう時、決まって目の前にちらつくのは、おれ自身の髪だった。
ハルアがおれの妹であることを忘れられたら。
忘れて、おれが面倒をみるのがおれ自身のことだけでよくなったら。
そうしたら、色んなことが随分と楽だろう。
メシだって、ハルアにわけなくていいから、たくさん食べられるだろう。
だけどそういう気持ちは、ハルアとそっくりの髪色を見るたびになくなってしまう。
どんなに忘れようとしても、おれがハルアのお兄ちゃんだという事実は、なくならない。
「……ちっ」
舌打ちする。母さんが見ていたら、絶対にやめさせようとするだろう。お行儀が悪いからって、悪い子がすることだからって。
けれど、ここへ入ってから、悪いことのひとつでも覚えなければ、前からここにいるやつらに仲間として認めてもらえないのだ。
「ハルアの前でやんなきゃいいんだろ――って」
ああ、また、“お兄ちゃん”をやってる自分に気がついて、嫌になる。
他のやつらは一人で、自分の面倒は自分で見てる。
だから気楽で、自由そうで、羨ましい。
そう思うのに、気がつくと、おれは母さんに言われたように、ハルアの面倒をみようとしている。
裏庭にある井戸で水をくみ上げ、水差しを満タンにすると、肩を落として中に戻る。
一人だけ身動きすることもできず、ぐったりしてるハルアに水を飲ませると、おれはさっさと部屋を後にした。早く精霊神教会にいって、パンを貰って来なきゃならない。
精霊神教会では、珍しく、聖女が絵本を読んでいた。
黄緑色の髪をした、母さんと同じぐらいの年の女。
いつもはつまらないだけの絵本の内容が、聖女の歌うような声と合わさって、母さんが歌っていた子守り歌みたいに聞こえて眠くなる。
だけど、おれは眠気を頑張ってこらえた。眠っていて、精霊神教会のキョウギとやらを聞きそびれたと知られれば、パンが貰えなくなってしまう。
おれは一日ぐらい何も食わなくても大丈夫だけど。
ハルアはきっと――。
おれは首を振って、なんとか眠らずに退屈な時間を乗り越えた。
聖女の手からパンを貰い、急ぎ足で孤児院に戻ろうとして――厄介なのに捕まった。
道を大柄のヤツに遮られた。小汚い格好からして、バターレイのヤツらだ。
汚いし、臭いけど、ヤツらを決して侮っちゃいけない。
バターレイの子供は、大人とだって張り合える。
自由なだけじゃなく、力を持ったヤツらなのだ。
「おい、おまえ、それをよこせよ」
「……これはおれがもらったお恵みだ」
そんなこと、こいつらだってわかってるだろう。ニヤニヤとしながらおれに近づいてくる。
おれはパンを胸に抱いて、地面を蹴った――だけど、大柄のヤツをとりまく子分のヤツらに掴まった。
「やめろ! そのパンはおれのだ!」
子分たちがおれを取り抑えているうちに、親分のヤツがおれからパンを毟り取る。
頭の中に、ハルアの顔が浮かんでぞっとした。
ハルアはきっと、耐えられない。
息をするのも苦しそうで、痩せ細り、起きあがることもできないか弱い妹。
たった一日でもメシを食えない日があったら、死んでしまうに違いない!
「やめろ! やめろ! 返せ! 返せぇ!」
半狂乱になって暴れるおれをヤツらはギョッとして取り抑えた。
おれはむちゃくちゃに暴れた。それと同じぐらいむちゃくちゃに殴られた。
だけどおれは叫び続けた。
「返せ! 返せ! それはおれの、ハルアのメシだ! ハルアの分だけでも返せ! 返せ!」
おれは何度殴られても叫び続けた。痛かったが、痛みより、すぐ側にある未来が恐かった。
バターレイのヤツらは、殴られても怯まないおれを認めたのかもしれない。
もしかしたら、少しはびびらせることができたのかも。
ヤツらはパンを半分だけ千切ると、おれに投げつけてよこした。
そして、逃げるように走り去っていった。
おれは地面に落ちたパンを慌てて拾いあげ、パンについた土を払った。
ハルアはすぐに腹を壊す。たぶん、このパンも、千切って、湯がいてやるのが一番いい。
だけど孤児院ではそんなこと、してやれない。
歯がみしながら、おれは孤児院に戻った。
精霊神教会から信徒の一人でもきて、そいつがとびきり親切なやつだったら、台所を使わせてくれるかもしれない。
しかし、そんな期待もむなしかった。
孤児院に戻ると、もう自分の分のパンを食べたやつらが、おれのもつパンを狙って目を光らせていた。渡すわけにはいかない。大人がくるのなんて、待ってられない。
「……ハルア、メシだぞ」
気絶してたのか、寝てたのかはわからない。
おれに声をかけられて、うっすらとハルアは目をあけた。
ぼんやりしながらおれを見て、ハルアはその目をみるみるうちに丸くする。
「おにい、ちゃん? いたいいたい?」
「え? ――ああ、そっか」
そういえば、殴られたんだった。
痛いけど、忘れていた。このパンがハルアの腹の中に入るまで、きっとおれは痛みを思い出せない。
「大丈夫だ。さっさと食え」
「おにいちゃん、たべて。びょうきは、ごはんをたべないと、なおらないの」
「おれはもう食ったから――」
言いかけたところで、おれの腹が鳴る。
ハルアは小さいし身体は弱いけど、バカじゃない。
ひ弱なくせに、目だけは強くおれを見据えてくる。
その目が、こう言っている。絶対に食べるないって。怪我をしたおれが食べるべきだって。おれのために、ハルアは我慢しているのだ。
おれは小さな頑固者を前にして、途方にくれた。
途方にくれて、泣きたくなった――このままじゃハルアが死んでしまう。
「お願いだから、食ってくれよ」
「おにいちゃん?」
「ハルア、おれのために、食ってくれ」
最後は泣きながら懇願した。ハルアはよくわかっていないみたいだったけど、おれに泣いて欲しくなかったのか、口に押し当てられたパンの欠片を口の中に含んでくれた。
小さく千切っては、ハルアの口の中に入れてやる。
おれも腹は減ってるけど、それなりの量の食物がハルアの中に入っていって、きっと明日はハルアを今日より元気にしてくれると思うと、救われたような気持ちになる。
「よく食ったな、ハルア」
おれが空腹だと知って気にしているハルアの頭を撫でてやる。
おまえは偉いって。よくやってくれたって。
次もメシを食ってくれるように。
褒めてやったら、ハルアはやっぱり小さいから、それだけで納得した様子でにこっと笑った。
その笑顔を見て、おれはどうあがいても、妹を守るためにいる“お兄ちゃん”なんだと思い知らされた。
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